「いまを生きる」、「グリーンカード」、「トゥルーマン・ショー」…ぼくの大好きなピーター・ウェアー監督の最新作だ。
上記のいずれの作品とも、親との確執、愛する人への告白など、だれもがであったことのあるシチュエーションを用意し、「このままでいいのか?」とさりげなく問題提起し、葛藤させ、爆発させる。
その爆発が「そうだよ。やっぱりこうでなくっちゃ」という共感と大きな感動を演出する。
今作、「マスター・アンド・コマンダー」は、19世紀のイギリス海軍船を舞台した、ラッセル・クロー演じる船長(マスター)と、船員であり兵員である(コマンダー)との物語だ。
しかし、この作品はすごく難しい映画だ。
パンフレットのなかでは、監督もふくめて「海を舞台にした歴史小説」の映画化としか、この映画を表現していない。
しかし、一方で原作小説では、イギリス海軍対アメリカとなっていた設定を、イギリス海軍対フランスにかえている。
何か政治的な意図・メッセージも感じないわけにはいかない。
いうまでもなく、現在進行形のイラク戦争をめぐっては、イギリスとアメリカは連合軍、それに対抗するフランスという格好になっているからだ。
[解釈1 : 「イギリス・アメリカは、これからも『悪いやつ』には武力的に対抗するぞ」]
いまのハリウッド映画の典型的なパターン。
敵はだいたいテロリスト。
祖国から遠く離れた場所でも、祖国や家族のために、自己犠牲の精神でがんばってたたかっている(いた)。
ラストにこれからも戦争はつづく、という「決意表明」が感じられる。
すごい ! 、カッコイイ ! ――の戦争推進映画。
パンフレットを読むと、日本での公開には日本船舶振興会が一枚かんでいるようで、どうもそういった右翼的なうさんくささを感じないわけにいかない。
[解釈2 : 「これからもこんな戦争をつづけていくの ?」]
敵のフランス船については、船長の名前すらでてこないなど、あまりに抽象的で暗喩的な表現。
一般的に「英雄」と評されるナポレオンを敵にすることは、現在のイギリス・アメリカのうつし鏡のようにも見える。
劇中、あくまで敵の打倒にこだわる船長と対比的に描かれているのは、同乗している医者であり生物学者の友人。
医者が必死に手当てをしても、船長が決意した戦闘でバタバタと戦死者が出る矛盾。
途中、進化論で有名なガラパゴス諸島に停泊して、生物の神秘さにふれる場面も印象的だ。
海と陸、命の軽さと生命の神秘さの対比。
ラストのこれからも戦争はつづいていく、という余韻は、「こんなバカバカしいことをまだつづけるのか ?」という皮肉なメッセージにも読める。
どうなの ?、どうなの ? とピーター・ウェアー監督お得意の「葛藤」を映画の外にもとめた告発映画。
映画を見ている間は、ある種の期待をこめてこうした解釈をもっていた。
ピーター・ウェアー監督は、80年代初頭にもイギリスがかかわった戦争を舞台にした映画、「誓い」を撮っている。
この映画は、「同盟国だから」とイギリスの戦争に派兵されたオーストラリアの青年たちの悲劇を描いている。
とくに「国を守りたい」という善意で参戦する兵士たちと、戦争を推進する上層部の思惑の違いを描いているのが印象的だった。
かつてこういう映画を撮った監督が、まさか単純にイギリス海軍を応援する映画をつくるわけはないだろう、という「偏見」のたまものなのだが。
もちろん、映画のパンフレットなどには、この解釈の裏づけとなるものはなにもない。
[解釈3 : 「いや、ただお上がうるさかったからさぁ…」]
ただ、冒険ものみたいな感じで撮りたかっただけ。
別に、イギリス海軍とアメリカ海軍でもよかったんだけどさぁ…。
お上(おかみ)がうるさくいうんで、まぁいいか、って。
…というぜんぜん考えてないパターン。
どうなんでしょうねー…。
カギは、
「イギリス海軍対フランス」にかえたこと
フランスの船があまりに抽象的な存在として描かれていること
ガラパゴス諸島でのエピソード
にあると思うんだけど…。
少なくともこのモヤモヤ感は、「『いまを生きる』、『トゥルーマン・ショー』のピーター・ウェアー監督作品」というより「『モスキート・コースト』*のピーター・ウェアー監督作品」というほうがふさわしいかも。
* 「モスキート・コースト」は、これまた強烈に意味不明な映画。ハリソン・フォード主演だっただけに、がっかり感が大きかったのも、近作につうじるかも。
コメントを残す