言葉の軽い街

渋谷センター街を歩いていて感じるのだが、この街は実に言葉が軽い。
いわゆる軽薄な言葉があふれているという意味ではない。
言葉自体に重みがないのだ。
正確には、渋谷駅の改札をぬけて駅を降りたとたんに、このことを感じる。

というのも、渋谷駅を出てハチ公前広場に降りたつと、いきなり2つの大型ビジョンが目に飛びこみ、そしてその2つが同時に、しかも大音量でそれぞれまったく無関係の言葉や音楽を流しまくる。
それぞれが自分の情報の重要さをひけらかすために、あれだけの投資をして大型ビジョンを設置しているはず。
しかし見る側はまともに両方の情報を受け止めることができず、結局おたがいの情報を低める様相になっているのだ。

その印象を引きずったままセンター街へ。
スピーカーからは「悪質なキャッチセールスに注意しましょう」などのアナウンスが延々とリピートしているが、その言葉を「重いもの」として受け止める気持ちはすでに駅前で消えてなくなっている。
むしろ、一人ひとりに目をむけ、語りかける、キャッチセールスの方が訴求力がつよいのではないかとすら思う。

本来、耳に入る人の言葉というのは重い、はず。
だから、ただ看板を置いておくのではなく、わざわざスピーカーを設置し、語りかける。
しかし、それが氾濫すれば、相対的に一つひとつの言葉は軽くなる。

じつは、こうしたことを日常的に感じているのは駅のアナウンスなのだ。
ぼくが毎朝使っているJRの駅では、ほぼ毎日、自動アナウンスによるつぎのようなやりとり(?)がくりかえされている。

「当駅では、7:30 から 9:30まで禁煙タイムとなっておりま…」
「(♪チャラリラーンとチャイム)まもなく2番線に電車がまいります。…」

ちょっと待て。
禁煙タイムの案内は、途中でさえぎっても許される、どうでもいい内容なのか?
案の定、ぼくが電車を待つ場所の近くある灰皿には、ほぼ禁煙タイムは存在しない。

「人の話を聞かない若者」といったことがいわれる現代だが、言葉自体を軽くしてきた社会の責任は問われないでいいのか。
そしてこの流れの奥には、言葉を発する主体である人間の存在自体が軽くさせられている流れがあるのではないかと思わずにいられない。
駅のアナウンスだって、ちょっと前までは、ホームに立っている駅員さんがやっていたはずだ。
彼の存在が消えたことと、アナウンスの自動化で言葉が軽くなったことととが同時に進行している。
その駅という舞台でしょっちゅう「人身事故」が起こり、ダイヤが乱れていることの因果関係――考えすぎ!?


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