「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー監督、ニコール・キッドマン主演ということで注目していた。
しかし、一言でいって「長く、つらい映画」だ。
主人公の絞首刑で終わる「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も強烈に後味が悪かったが、この「ドッグヴィル」は、それ以上だ。
そのいやな気分(嫌悪感といっていいだろう)は、R-15指定になっていることからも普遍的なものだろう。
くわしくは、「つづき」で書きたいと思うが、いわんとしているところは「興味深い」と思う。
が、こういう仕方でしか表現できないのか。
監督は、「映画は私にとって実験という側面を持つメディアなのだ」という。
たしかに、黒い床に道と家、部屋の境界を白い線で描いただけのセットは、まるで前衛的な演劇の舞台のようだ。
結果として、地域・場所の抽象化=普遍化を実現し、人物像だけを凝視することをもとめるしくみになっているのはおもしろい。
しかし、「実験」は「実験」だ。
「実験」につきあう心構え、そして覚悟のある人だけが見ればいい、という映画もあるのだ。
※ということで、「つづき」は、詳細を知りたい人、この映画になんとか納得したい人にささげる。
この映画が批判しているのは、アメリカ的なるもの、とくにキリスト教に根ざしたその思想的ルーツともいうべきものだ。
自分なりに謎解きすると、ニコール・キッドマンが演じた主役のグレースがキリスト、その親父でありギャングの大ボスがキリストの父でもある絶対的な「神」だ。
あらゆるひどいことをされるグレースの「そこまでされてだまって耐えるのか」というもどかしさや、TVCMでも出てくる重い鎖につながれる姿はキリストとだぶらせると納得がいく。
「ドッグヴィル」の住人のおこない・姿勢にイライラし、啓蒙しようとするポールは、さしずめマスコミの象徴か。
切羽詰まると、自己保身から権力に迎合するというあたりも、いまのアメリカの巨大マスコミを象徴している。
ラストの大虐殺シーンはキリスト教にたびたび出てくる「ハルマゲドン」的なものだろう。
アメリカ人に対して「最後の審判」にてらして自戒をもとめる警告の映画のようにもうけとめられる。
聖書には、バベルの塔の崩壊、かぎられた人や動物だけが大洪水の難を逃れる「ノアの箱舟」、そして将来キリストが復活してすべての人間が「裁かれる」という「審判の日」など、神の判断で莫大な命が奪われる事象が数多く描かれる。
ぼくは母の影響で中学生ぐらいまでに聖書は一通り読んだのだが、「信ずる者は救われる」の裏側にある「信じない者は救わない」の考え方は、なんとも空恐ろしいものを感じた。
十字軍など異教徒に対する暴力・抹殺を合理化する背景にもなってきたのは事実。
現時点では、多くのキリスト教者も平和や社会進歩のために行動している。
しかし、キリスト教が国教的になっているアメリカで、そのルーツや論理そのものに目をむけることをこの映画は提起しているのではないかと思う。
アメリカではメル・ギブソン監督の映画、「パッション」が大問題になっているようだが、よっぽどこちらの方を問題にしたほうがいいのでは…と他人事ながら心配してしまう。
…と、ここまでは悪くない。
この映画が最悪なのは、登場人物のだれにも共感できない(したくない)ところだ。
人びとの善意とわずかな欲が引き起こす混沌と狂気を緻密に描き、告発はする。
しかし、「ドッグヴィル」の住人たちには、それを打開しようという姿勢がまったくない。
だから共感できないし、したくない。
一方のグレースと親父のギャングの親分に共感しきれる人もいないだろう。
だれにも共感できなければ、告発にたいする解決の糸口はなくなる。
いやな気分の最大の要因はこの点だと思う。
どこにも糸口がなければ、外部からの「力」に頼るしかない…監督自身は、ギャングの親分のつもりなのか。それとも、解決の見込みはないが自己啓発に期待するポールか。
そして観客にも同じ問いが投げかけられる。
映画の中から外につながってぐるぐる回る「いやな気分」の堂々巡り。
その真ん中にあるのは人間であり現実…。
「ドッグヴィル」はまだ結論の出ていない「実験」、大いなる犠牲をはらんだ「人体実験」なのだ。
コメントを残す