「たそがれ清兵衛」をアカデミー賞にノミネートさせた山田洋次監督の時代劇第2弾。
笑いあり、涙あり、息つまる真剣勝負あり、そしてラストシーンでほろっと感動させる映画の王道中の王道のつくり。
平侍のつましい暮らしと、かつての剣の仲間を斬るという役回りをもった片桐宗蔵を永瀬正敏さんが堂々と演じ、彼に女中奉公する農家の娘、きえを演じた松たか子さんも実にりりしく美しかった。
しかし、パンフレットを読んだりシーンを思い返したりするなかで、ガーンと深い感動をもよおさせるという、実に不思議な映画だ。
それは、時代劇という意味での「時代」と、現代につながる歴史という意味での「時代」と両面において、じつにていねいにつくられた映画だということなのではないかと思う。
時代劇というからには、現代とは違う別世界を体験できるという娯楽性もなくてはならない。
近作では藩内での大砲や鉄砲などの新兵器に対応するための武士の訓練がわかりやすくおもしろい。
当時の武士の所作の基本は、右手と右足、左手と左足が同時に出るというもので、足の運びはすり足。
「エゲレス式」を教える先生の右手と左足、左手と右足を交互に高々と上げて走る、現代では当たり前の動作に、武士の一同は腹をかかえて笑い転げる。
衣装のくたびれ加減や、ちょうど今夏たずねた山形の歴史資料館そっくりの民家のたたずまいなど、じつにリアルだった。
しかし、同時に一般の時代劇はその時代を固定的なものとしてしか描かない。
水戸黄門の印籠をかかげて「ははぁ…」の時代と現在とのつながりなど考えたことがあるだろうか?
あのドラマがどの程度史実にもとづいているかは別にしても、少なくともチョンマゲをゆって刀をさしている一部の人たちに圧倒的多数の人びとが「ははぁ」と頭を下げざるをえなかった時代とは、一つの時間軸のなかにある。
その変化も歴史の事実である。
いくら衣装や言葉などの文化が精密に描かれていようとも、その「時代」が永遠につづく固定したもののように感じられた時点で、歴史としてのリアリティーを失わせる。
…というのもこの作品を見た結果の新たな認識なのだが。
それほどまでに、近作は江戸時代がこのままつづかなかったのは当然だ、と思わせるリアリティーをもっている。
江戸時代が300年もつづいたのは、支配する側にとっても支配される農民にとっても、戦(いくさ)がないという建前の体制はありがたかったから、ではないかと思うが、今作では前述のとおり「大量破壊兵器」に対応するための訓練がおこなわれる。
敵はいったいだれなのか、という矛盾。
武士と農民の娘がおたがいに愛しあっても、けっして結婚は問題にならないという矛盾。
世の中をよくしたいと正義感に燃える者は罪人、私腹を肥やせる体制を維持することに熱心な者がそれを裁くという矛盾…。
そうした矛盾を斬るのが「隠し剣 鬼の爪」というつくりなのだ。
もちろん、こうした歴史観を感じさせるのは、日本映画史上近作がはじめてというわけではないだろう。
黒澤明監督が「七人の侍」のラストで、そのタイトルとは裏腹に「結局、勝ったのは農民だ」といわせたのもその一つ。
しかし、近作と前作「たそがれ清兵衛」は、国民の意識が現在の社会への矛盾をつよめているもとで出るべくしてでた、社会的な背景をもつ「時代劇ルネッサンス」ともいうべき意義をもっているといっていいのではないか。
矛盾するかもしれないが、前作「たそがれ清兵衛」が「ぜんぜんかっこよくない剣の立ち回り」などの、ある一時代のリアリティーにこだわった時代劇の新しさを見せたのにくわえ、近作はそれに歴史の奥行きとエンターテイメント性をもたせて一回り大きな映画をつくりあげている。
そしてあの大作、「ラスト・サムライ」で描かれた侍魂などちゃんちゃらおかしい、という日本映画からの回答として、実におもしろく、意義深い。